シャルトル学派はなかった！？
十二世紀ルネサンスの風景
この記事の初出は翻訳フォーラムWEB掲示板四号です。
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みなさん、こんにちは。以前、「巨人の肩」をめぐってシャルトル学派 のことが話題になりました。このたび平凡社 『中世思想原典集成８ シャルトル学派』を入手し、監修者である岩熊幸男氏の総序を読んでみ たところ、シャルトル学派や当時の状況について興味深いことがいろい ろわかってきたので、ここにメモらせていただきたいと思います。 ■十二世紀の知的状況 「十二世紀ルネサンス」という言葉は、いまや知らない人でも知ってい るという感がありますが、これを最初に唱えたのはハスキンズという学 者で、ときは1929年なのだそうです。そしてその後、「十二世紀ルネサ ンス」の内実をめぐっていろいろ議論があったようです。この時代、西 ヨーロッパの知的状況が大きく変わったのですね。たとえば、 ・建築ではロマネスク様式が最盛期を迎え、ゴシックに移行。 ・音楽ではポリフォニーが出現。 ・俗語による文学の興隆。 ・教会法・市民法をとわず法学が整備される。また政治的な面に目を転じれば ・ローマ教皇を頂点とする教会組織の確立 ・それと相携えると同時に相矛盾しながらの世俗王権の進展↓ 教会、世俗を問わず膨大な官僚層が必要になる。 こうして、公文書用語であるラテン語をあやつれる知識人が急激に増大 し、ひとつの層を形成するまでになったというのです。つまり十二世紀 は、ラテン語の普及という点でも非常に重要だったんですね。 「総序」には、ノジャンのノートル＝ダム修道院長ギベールの『自伝』 の一部が訳出されておりまして、これが、この時代の変化をとてもよく 表していると思うので、ちょっと長くなりますが、引用させていただき ます。p.8- かくして私は勉学に励みアルファベットの形はどうにか学んだが、 しかし文字を連ねて語を綴る方法はまだほとんど知らなかった。 そこで、私の敬虔なる母は、私の教育に熱心なあまりに、私を教師 につけようと考えた。その頃より少し前（といっても私の幼年期に 重なるが）には、教育のある人の数はほんのわずかで、町々にはほ とんど全然存在せず、都市[岩熊氏注：彼の生地は後に活発な学問で 知られることになる都市ラン(Laon)に近かった]に行ってもほとんど 見つからないほどであった。そしてたまたま見つけることができた 人々も、その知識たるやいとも貧しく、今時の放浪学生の知識とす ら比べものにならないほどであった。ここで言うギベールの幼少期とは、1060年頃のことです。その頃はまだ 教育のある人はほとんどいなかった。ところが彼が大人になる頃には、 放浪学生でさえそれなりの知識を身につけていたというわけです。たか だか一世代ほどのあいだに、知識人層のありさまが一変したのですね。 ラテン語の基礎的読み書きを修得した者は、さらに高い知識を求めて各 地を放浪するようになり、需要に応じて多くの教師が学問の各分野に輩 出するようになります。そしてこの教師たちが、お互いに論争を繰り広 げることによって、各分野がますます磨かれていったわけです。 ■知識人養成機構の状況 さてこの「十二世紀ルネサンス」期に、教育・研究の場は二つあったと されています。 １ 人里離れていることの多い修道院に付属の学校 ２ この時期に急激に興隆を始めた都市の司教座聖堂附属学校これはどちらもキリスト教関係ですし、当時は都市といってもまだ小さ かったので（たとえばパリでさえ、セーヌ川中州のシテ島と、右岸のほ んの一部を墓場、刑場などとして含んでいただけだそうで、残りは葡萄 畑や森林に覆われていたのだそうな）、それほどの違いはないようにも 思えますが、しかし修道院はあくまでも祈りの場であったのに対し、俗 人もいて騒乱もたびたび起きた都市の学校とでは、だいぶ学風が違うの だそうです。 そして、この都市の学校の中でも、とくにパリにはいろいろな私塾も生 まれ、のちにパリ大学に発展して、十二世紀ルネサンスの中心地となっ ていきます。 ■シャルトル学派とは何か このパリと並ぶ十二世紀ルネサンスの中心地としてこれまで注目されて きた都市が、シャルトルです。（シャルトルは今日でも小さな町ですか ら、十二世紀には、今の基準でいえばさぞかし小さかったことでしょう。） 従来、シャルトル学派とは次のようなものとされていました。
１ シャルトル司教座聖堂附属学校は、十一世紀初頭に司教シャルトル
のフルベルトゥス（Fulbertus Carnotensis 970頃〜1018)を中心とし
て栄えた。
２ 十二世紀前半五十年間にシャルトル司教区で三代続いて優れた尚書
（cancellarius 公文書作成の責任を負い、ところにより次世代の教
育の責を担った）を輩出した。
シャルトルのベルナルドゥス
(Bernardus Carnotensis 1126没：当初は
Bernardus silvestris 1100頃〜1160頃と混同されていた）
ギルベルトゥス・ポレタヌス
(Gilbertus Porretanus 1080〜1154)と、
シャルトルのティエリ
(thierry de Chartres; Theodoricus Carnotensis sive Brito)
コンシュのギヨーム
(Guillaume de Conches; Willelmus de Conshis 1090頃〜1154頃)
さらにはイギリス人である
ソールズベリーのヨハネス
(Johannes Saresberiensis 1115/20頃〜80）
もその魅力に引かれてパリからシャルトルにやってきて、のちにシ
ャルトル司教となった。
３ 彼らの思想的特徴は、
・プラトン主義的思想と古典人文主義的教養
・諸学問の調和を計る
・新たにアラビア語から訳された自然学書にも目を配る
・独自のプラトン主義的自然哲学を打ち立てた
シャルトル学派というときの要点は、この三つ（フルベルトゥスの貢献、
三代の尚書の貢献、思想的特徴）ぐらいに分けて考えることができそう
です。
この「シャルトル学派」という言葉自体は、十九世紀末の歴史家プール (R.L. Poole)が用い出し、少し後のクレルヴァル(A. Vlerval)が補強、 定着させたものらしいです。それ以降、「シャルトル学派」の存在を前 提として校訂研究が行われてきました。 ■シャルトル学派は存在したか？ サザーンの議論 ところが1970年になって、サザーン(R.W.Soouthern)が「シャルトル学派」 という考え方そのものに強い疑問を投げかけたのだそうです。 サザーン の議論はおおよそ次のようなものです。 ・プールの説は、シャルトルのベルナルドゥスとベルナルドゥス・ シルヴェストリスとが同一人物であることを前提としていた。 （実は別人） ・実際にシャルトルで教えていたことが証明できるのは、シャルトル のベルナルドゥスのみで、のこりの三人（ギルベルトゥス・ポレタ ヌス、シャルトルのティエリ、コンシュのギヨーム）は、シャルト ルで聖職についていたのは事実だが、教授活動をしていたのはパリ であった。 ・プールはこの三人がベルナルドゥスの弟子であったと主張したが、そ の証拠はない。つまり、シャルトルの学校が繁栄したのはベルナルドゥス一代のあいだ だけであって、学問の中心地は十二世紀の早くからパリに移っていた、 ということです。 ■サザーン以後の論争の要点 このサザーンの説に対してすぐさま反論が行われましたが、今日までの 議論の趨勢をまとめれば次のようになるそうです。 １ シャルトルには十二世紀前半を通じて相当規模の学校が存続したか。 (次世代の聖職者を育てるためだけの小規模な学校なら各司教地区 に存在していたので、ここでは他地域からも学生を引きつけるほど の知的中心となるような大規模な学校が存在したかが焦点になる） →ほぼサザーンの説が認められ、多くの「シャルトル学派」の 思想家はパリで教授していたことが合意されている。 ２ それでも上記のような思想家には、「シャルトル的」と言えるよ うな特徴があるのではないか。 →今日の議論はほぼこれ。 ■岩熊氏の見解 『シャルトル学派』の監修者である岩熊氏自身は、「シャルトル学派」の 存在に否定的のようです。その根拠は、 ・今日「シャルトル学派」に属すると考えられている人は、同時代 には特定のグループを形成しているとは考えられていなかった。 文献上、「シャルトル学派」と解しうる集合名詞は、たった 一つしかみつかっていない。(Carnoti……dicunt：しかしこ れも位格locativeと解釈すれば、単に「シャルトルでは…… と言っている」とも読める）つまり「シャルトル学派」は、歴史実態としてではなく、現代の研究者に とっての便宜上の用語にすぎないというわけです。 ・パリ、ラン、シャルトル（フルベルトゥス、ベルナルドゥス）以 外にも、学生が放浪するような地方都市の学校は存在したが、あ っというまに（岩熊氏の見解では1130年ごろにはすでに）パリが 突出し、シャルトルは一地方学校に戻ってしまった。実際、イギリスからやってきたソールズベリーのヨハネスもまずパリに行 っています。さらに本書には、同じくイギリスから来たニゲルス・デ・ロ ンゴ・カンポ(Nigellus de Longo Campo; 1130頃〜1200以降）の諷刺詩、 『愚者の鏡』が訳出されていいて、これが面白いので、長くなりますが引 用させていただきます。p.16
そうだ、パリに行こう。そして十年費やして勉強し
諸学芸を考究しよう。一刻も早く旅立とう。
その後に、神のお導きがあればボローニャへも赴き、
法律の頂点を極めよう。
神学と法学との獲得がわが労苦の
報いとなろう、死んでしまいさえしなければ。
かくして、俺の名には肩書きがついて「マギステル（学士）
ブルネルス」と呼ばれることになろう。名は体を表すのだ。
もし誰かマギステル抜きでブルネルスと呼び捨てにする奴がいれば、
そいつは俺の公然たる敵だ。
わが名の誉のほうがまず人の口の端に上り、
比類なき俺がその後に公然と姿を現そう。
お偉方が人々を従えて俺を立ち向かえ、
大衆どもが殺到して叫ぶだろう。「見よ、マギステルが来た！」
えー、このブルネルスというのは驢馬です^^; パリ大学がまだ制度とし
て確立していない当時（1140年頃）すでに、「マギステル」という学位
が出世の条件になっていたことを示す点で、重要な資料だそうです。
また、ここで重視されているのはパリとボローニャのみで、シャルトルは まったく出てきません。 ■「シャルトル学派」の人々 以下の五人（上に出てきた五人）は、なんらかの形でシャルトルと関係 があった人ですが、要するに「シャルトルに多くの学生を引きつけたの は、ベルナルドゥスであった」ということのようです。
シャルトルのフルベルトゥス（Fulbertus Carnotensis 970頃〜1018)
シャルトルで教えた人物として資料上最初に出てくる人物。
ランスでオーリヤックのゲルベルトゥス（数学史でも有名な
教皇シルヴェステル二世）に学ぶ。数学・天文に興味を持つ。
1004年にはすでにシャルトルで教えていた。
当代一の学識をもつとされた。
直接的に「シャルトル学派」に影響をもつとは考えられない。
シャルトルのベルナルドゥス(Bernardus Carnotensis 1060?〜1126没）
フルベルトゥスのほぼ百年後の人。
シャルトルにヨーロッパ中から学生を引きつけたのはこの人。
「シャルトル学派」を代表する高名な弟子たちを教えた。
弟子たちにとても慕われていた。
ギルベルトゥス・ポレタヌス(Gilbertus Porretanus 1080〜1154)
シャルトルのベルナルドゥスに直接師事したことは確実。
しかしその前にポワティエのヒラリウス、その後にランで
アンセルムスとラドゥルフスに師事。→「シャルトル学派」
というより「放浪学生」的。
ランの後ポワティエで教え、後にシャルトルに戻る。
1126〜1137までシャルトルの尚書。その間どこで教えていた
か（シャルトルかパリか）は不明。
1140年代にパリで教えていたのは確か。
シャルトルでも実際に講義をしたことはあった。
シャルトルのティエリ(Thierry de Chartres)
晩年にシャルトルの尚書になったこと以外には、
確実なシャルトルとのつながりはわかっていない。
主な活動はパリ。
コンシュのギヨーム(Guillaume de Conches 1090頃〜1154頃)
シャルトルで教えていたかどうかは、研究者のあいだでも
意見が一致しない。
これ以外の「シャルトル学派」の人々は、まったく間接的にしかシャル
トルと関係がないのだそうです。
また、ソールズベリーのヨハネス(Johannes Saresberiensis 1115/20頃〜80） は、一時シャルトルで学び、晩年にシャルトルの司教になりますが、著 作は（司教としての書簡を別にすれば）司教になる以前に書かれている のだそうです。 ■思想的共通性？ 上述のように、「シャルトルで学派を形成するような活動をしたか」と いう観点からは、「シャルトル学派」とはっきり言いうるのは、「巨人 の肩」のベルナルドゥスひとりということになります。 では、思想の共通性についてはどうでしょうか？ 「シャルトル学派」 として括れるような特徴はあるのでしょうか？ それを見るために、 『シャルトル学派』の目次を書き出してみます。 総序 岩熊幸男 詩集 シャルトルのフルベルトゥス プラトン注解 シャルトルのベルナルドゥス ボエティウス デ・ヘブロマディブス注解 ギルベルトゥス・ポレタヌス 宇宙の哲学 コンシュのギヨーム プラトン・ティマイオス逐語注解 コンシュのギヨーム 六日の業に関する論考 シャルトルのティエリ ヘプタテウコン（七自由学芸の書）シャルトルのティエリ コスモグラフィア（宇宙形状誌） ベルナルドゥス・シルヴェウトリス メタロギコン ソールズベリーのヨハネス 創世記についての小論考 アラスのクラレンバルドゥス アンティクラウディアヌス アラヌス・アブ・インスリスティマイオスはプラトンの宇宙論ですし、アンティクラウディアヌスも ティマイオス理解に立脚する一種の創造論。フルベルトゥスの詩集にも 自然学が含まれる（らしい）ので、「メタロギコン」と「ヘプタテウコ ン」以外は全編これ宇宙論といえます。 実を言えば、「十二世紀ルネサンス」という言葉はわたしも知っていま したし、「シャルトル学派」なんて言葉もこれまで何度となく口にして きましたが、これほどまでに宇宙論的タイトルが並ぶとは思っていなか ったので（要するに何も知らなかったので^^;）、たいへん驚きました。 では、「シャルトル学派」＝「宇宙論」なのでしょうか？ 岩熊氏によ れば、プラトンの『ティマイオス』への熱狂は、当時の流行ともいえる ものだったそうです。つまり、ここに「シャルトル学派」の独自性を見 るわけにはいかないということです。 ■まとめ 結局、学生を集めたという意味で、「シャルトル学派」と言えるのは、 「巨人の肩」のベルナルドゥスだけといえそうです。 こうして「シャルトル学派」の実態を追っていくうちに、「シャルトル 学派」の像がぼやけていく一方で、当時の社会、文化状況が浮かび上が ってきたような気がします。 個人的には、目次を見てものすごく興味を引かれました。ぼちぼち中身 を見ていきたいと思いますが、なにせ一冊で千ページを越える分厚さ^^;。 のんびり楽しみながら読んでいくことにいたしましょう。 ☆ DELPHICA ☆ |
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